【女装業界歴史館】大阪の女装業界史(1)-スナック唄子に始まるミナミからキタへの伝播

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Comment

梅沢弓子

 唄子は昭和38年から昭和62年までの歴史がありますが、その間昭和町の北の端、マンション、ときわ横町の三店舗、体育館裏へと移転していきます、それはどうして?初期の唄子はスナックというよりも間口の狭い店舗でスタンドだったと思います。カウンターバーのみで、背後にはボックス?テーブル?席を設けるスペースはなかったのでは?二階はメイクルーム兼簡易宿泊所だったのでは?徐々に進化して、体育館裏では間口が広く一階はバーカウンター+テーブル席に、二階はメイクルームに、三階は簡易宿泊所にと進化していったのでは?この形式はロマン、神山町のばら、京橋時代のミステリースポットにも採用されました!!

2019.09.25 Wed 01:57

梅沢弓子

一番最初の唄子は昭和38年頃阿倍野区昭和町の北の端に誕生したようです。
地下鉄昭和町と地下鉄文の里駅(当時は南海平野線)の近くだと思います。その後、国鉄関西線・阪和線と近鉄南大阪線が交わる天王寺駅近くの地帯のアパート・マンション群に移転したと考えます。以後、ときわ横町の鳥居近くに、そしてときわ横町の南側の大通り近くにスナック雄ともう一店舗構えたようです。スナック雄が火災に遭い最後は昭和55年に阿倍野体育館裏にこれらの複数店舗がまとめて引っ越し、昭和62年頃?閉店したようです。

2019.03.04 Mon 11:25

梅沢弓子

 私は昭和56年から57年にかけて、体育館裏の唄子に通っていました。
建物は地下一階、地上三階の木造文化住宅でした。地下はSM、一階はスナック、二階はメイクルーム、三階は簡易宿泊施設と風呂場がありました。この建物は平成31年現在も現存しています。他の店舗にかわりましたが、三階は概ね当時のままのようです。
 ときわ横町のスナック雄が火事で焼け、昭和54年に体育館裏に引っ越してきて、昭和55年から営業を始めたようです。
 カウンターは新しかったですが、椅子やテーブルは古かったです。おそらく、ときわ横町の焼け跡から持ってきたのでは?ときわ横町の鳥居から二軒目南のスタンド唄子時代の建物も現存していますよ。

2019.03.04 Mon 03:23

あきら

唄子は、ずっと阿倍野で営業してましたよ。唄子、雄唄子、雌唄子が一つになり、今は無いですが阿倍野体育館の裏では閉店まで営業してましたよ。ロマネスクのシロウさん、バラの池田さんとたもっちゃんも、唄子出身です。池田さんは、はっきりとは覚えて無いけどお客さんだったと思います。それと雌唄子の北さんが、ミナミでスナック北ってやってましたよ。その北さんの息子でアキラって言います。唄子も3年ぐらい居ましたよ。
でも、懐かしい思い出をありがとうございます。頑張って下さい。

2017.06.21 Wed 10:20

通りすがり

もう一つの女装史

拾い物ですが、こんな大阪の女装史を見かけました。

http://ncode.syosetu.com/n5968ck/

2016.12.23 Fri 23:44

老爺

ミステリースポットが 抜けてます
ロマンやばらと同等ですから

2015.08.09 Sun 19:04

じゃがりこ

お初の書き込みです。
いつも楽しく拝見させていただいております。
ここまで詳しく大阪の女操業界史を書かれている場所はないので
非常に楽しみです!第2弾も楽しみにしております。

PS 千秋さんは一体いつ寝ているんですか?お疲れ様です。笑笑;

2015.05.08 Fri 18:14